大いに盛り上がっているが、秀頼は秀吉の子でなかったという説がある。真相はいかに。
■実子がいなかった豊臣秀吉
豊臣秀吉の正妻は、おね(ねね)である。しかし、2人の間に実子は誕生しなかった。
秀吉は側室を迎えるものの、やはり子は誕生しなかった。秀吉にとって、実に憂鬱なことだった。
戦国時代にあって、後継者たる男子が生まれないことは致命的なことだった。
そこで、秀吉は甥の秀次を養子に迎え、後継者に据えることで問題を解決しようとした。
しかし、男子をもうけて後継者に据えることは、秀吉の悲願だったに違いない。そして、秀吉の悲願は見事に実現するのである。
■茶々(淀殿)との結婚
秀吉と茶々(淀殿。以下、淀殿で統一)を側室に迎えたのは、天正16年(1588)のことである。淀殿を側室に迎えたことは、秀吉を幸運に導いた。
文禄元年(1593)、秀吉の念願が叶って、2人の間に秀頼が誕生した。
なお、慶長3年(1598)の秀吉没後、秀頼は豊臣家を継承したが、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で徳川家康に敗れて自害した。
■秀頼は秀吉の実子ではない
ところが、秀頼に関しては、古くから秀吉の実子ではなく、淀殿と大野治長の間の子であるといわれてきた(『萩藩閥閲録』)。
秀頼は、淀殿と治長が密通してできた子だというのである。
フロイスの『日本史』にも秀吉に子種がなかったことや、夭折した長男・鶴松が実子でないと明確に書き残している。
こうした点は誠に興味深いところであるが、未だ検討の余地があるといえよう。
余談ながら、姜沆の『看羊録』には興味深いことが書かれている。秀吉の死後、徳川家康は秀吉の遺命に従って、淀殿を妻に迎えようとした。
しかし、淀殿は治長の子を宿していたので、これを拒否。家康は治長を流刑にして殺したと記している。しかし、これは虚説であろう。
現在でも、秀頼が秀吉の実子であるか否かに関しては、論争が続いている。
実子でないという説を唱える羽鳥英雄氏は、以下の理由を挙げている(『河原ノ者・非人・秀吉』山川出版社)。
①根本的に秀吉には子種がなかったと考えられること。
②秀頼が誕生する10ヵ月前に秀吉と淀殿は同じ肥前名護屋(佐賀県唐津市)にいなかったこと。
では、秀頼は誰の子だったのか。
当時、参籠の場が男女の交情の場となっており、そこで子供が授かることがあった。そこで、聚楽第あるいは大坂城内の城内持仏堂を参籠堂とし、
宗教者(僧侶あるいは陰陽師)と淀殿が交わって誕生したのが秀頼であるという。大胆な説であるが、さらに検討を要しよう。
■まとめ
一ついえることは、秀頼が実子であったか否かは別として、秀吉の後継者になったことが重要という点である。このことで、豊臣家は存続するのであり、仮に他人の子であっても関係ない。
そのことを言い出すと、多くの戦国大名は養子を受け入れていたので、当時の世情にあわなくなる。真相は不明であるが、これ以上詮索しても史料的な裏付けは得られないだろう。
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20211027-00264232
>当時、参籠の場が男女の交情の場となっており、そこで子供が授かることがあった。
まじで?
秀頼の骨、というのはどーなった?
ホンマに六尺を越える巨人だったのか
浅井長政が偉丈夫
娘は父親に似て息子は母親に似るから
DNAは秀頼に伝わっているw
豊臣秀頼はとても優秀な若者だったという記録もあるよね。
なので、その存在を恐れた家康は秀頼を殺した、と。
体格も良くて聡明そうだったから、実際に会って焦ったとも言われてるね
まあ母方の浅井は大柄だって言われてるからな
残ってる手紙なんかだと秀吉も実子じゃないと思ってた可能性があるんだとか
主筋の血筋になるわけだし、実子じゃなくても自分の子供として
跡継ぎにしたいと思ったのかもな
甥なんかよりは血はつながってなくても自分の子として育てた子の
方が普通に可愛いだろう
家臣に大谷みたいな体格のがいるんだよなぁ
それが秀吉に似てないとよく言われるが、祖父に当たる浅井長政がデカくて有名なので、隔世遺伝なら不自然ではない。
毎日やりまくりだから出来なかっただけ(´•ω•`)
なにいってんだこの馬鹿
別のやつにも一人子供がいなかったっけ
死んだかなんかしたとか
京都の奉行時代に遊女に男のガキができたけど
長浜時代に事故死(まあネネがなw)
いない
養女だろ
弟の秀長の方だなそれ
娘が二人いたけど早世した
当時からみんな疑問に思ってた
1位 北政所
2位 京極竜子
3位 三の丸殿
4位 加賀殿
5位 浅井の方
ってところじゃないか
子供が産まれていなかったら成人していた秀吉の甥が後を継いでいたわけだからな
あの大虐殺で豊臣家の基盤が一気に弱体化した
本当それだよな
秀次一族を虐殺しなければ歴史は変わっていた
家康に家臣の範疇を超えた地位や石高を与えている段階でもう駄目だよ
死後に秀次派と秀頼派に分かれて戦争って可能性もあった
跡目争いで主家が没落するのはよくあったこと
織田信雄にやったように、ちょっとミスがあったら目一杯の減封をするか、代替わりしたら関東を分割相続させて力を弱めるつもりだったと思う
丹羽長重なんかはいい例だよな
おそらく二代目になってから言いがかりをつけるつもりだったのかもしれん。
ただ残念ながら寿命は秀吉の方が早くきてしまったうえに
朝鮮出兵の免除をされた当時の家康の財力は他の大名を圧倒してしまっていた
言いがかりというより実力主義で領地を与えてるんだから
なんの実績もない跡取りが親父と同じ領地を相続できるはずがない
本能寺もそれが原因と言われてるしな
そんなことはない。
例えば大友義鎮の息子義統なんかは殆ど実績なんかないが秀吉にかなり可愛がられた。
朝鮮出兵てしくじらなけれぱ改易されるようなこともなかっただろう
というか、丹羽長重知らないのにレスするなよ
だよなあ
自分の子供じゃなくても、自分の子供っていえるならいい、とか思ってたかも。
自分の子供って信じたかったのかな。
ほんとの子供だったかもしれないけど。
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