女「知らなーい」
男「古代ギリシアの哲学者カルネアデスが提起した問題で」
男「難破した船に乗っていたある男は、船の残骸である板にしがみついてどうにか生き延びてた」
男「しかし、そこへもう一人やってきてしがみつこうとする」
男「二人しがみついたら板が沈むと思った男は、そのもう一人を突き飛ばして、自分だけ助かる」
男「緊急避難の例としてよく使われる問題だ」
女「まるで今の状況とそっくりね。一つの板に私たち二人でしがみついてる」
プカプカ…
男「ああ、そして……男は罪に問われなかった。俺も同じ道を選ぶッ!」
ズガァッ!
男の肘打ちが女を強打した。
男「悪いな、海に沈んでくれ。この板は独り占めさせてもらう」
女「ちく……しょう……」ザブ…
ブクブクブク…
女の体はみるみる沈んでいった。
女(ここまで……なの……?)
ブクブクブク…
サメ(突然変異である俺は、そこらのサメとは比べ物にならないほど強く、シャチですら俺には敵わねえ)
サメ(さて、今日の獲物は……)
女「……」ブクブク
サメ(人間の女か……悪くねえな。さっそく食ってやる!)グオオオオッ
女「……」ギロッ
サメ「!?」ビクッ
サメ(なんだ、この女……なんつう眼力だ!)
サメ(俺より……遥かに強いッ!)
女「……」
女「……」スッ
サメ(動いた!? 何するつもりだ!?)
女「……」ジャキーンッ
女は親指を立てた。
サメ(これは……ヒッチハイク!?)
前代未聞――鮫への水中ヒッチハイク敢行!
サメ「……!」
サメ「分かったぜ……送るよ」
女(ありがとう!)
女はサメのヒレにつかまった。
サメ「さあ、飛ばすぜ!」
男「このまま板にしがみついてりゃ、俺は生還できる」プカプカ…
男「あいつには悪いことしたがな……」
シュゴォォォォォ…
男「なんだ?」
ゴォォォォォォッ!
男「サメ!? 水中からサメが凄まじい勢いで海面に向かって泳いできたァ!」
男「しかも、サメのヒレには――」
女「さっきはよくもやってくれたわね!」
サメにつかまりつつ、女は拳を構えた。
女「シャーク・アッパーカットォ!!!」
バキィッ!
男「ぐぼあぁっ!」
空中へ殴り飛ばされる。
女「これで終わるもんか! さらに――」
女「両手を組み合わせた、ハンマーパンチィッ!」ブオンッ
ドゴォンッ!
男「がはぁっ!」ザブンッ
猛スピードで海底に沈む男。
女「カルネアデスの板、ゲット!」パシッ
サメ「やったな、姐さん!」
男(ぐおおおおおおお……!)
男(まさか今度は俺が海底に沈むはめになるとは……)
男(海面に向かって泳ごうにも、あのハンマーパンチの威力がすごくて全然上に行けねえ!)
男(ああ……このまま俺は深海魚の餌か……)
…………
……
男「ここは?」ガバッ
乙姫「よう来たの。ここはわらわの城……竜宮城じゃ」
男「竜宮城!?」
乙姫「海底で気絶してるおぬしをカメが見つけてのう。介抱してやったのじゃ」
男「そうだったのか……」
乙姫「せっかく来たのじゃ。ほれ、鯛やヒラメの舞い踊りでも楽しんでゆくがよい」
男「……」
乙姫「なんじゃと?」
男「俺はすぐ戻って、あの板を取り戻さなきゃならないんだ」
乙姫「なんとまあ慌ただしい小僧よ」
男「慌ただしいついでに玉手箱をくれ」
乙姫「かまわんが、どうするんじゃ……?」
男「開ける」パカッ
乙姫「あっ、バカ! そんなことしたら――」
モワモワモワ…
男「当然おじいさんになる。だが、これでいい。これがいいッ!」
乙姫「どういうことじゃ!?」
乙姫「まあ、そうじゃな」
男「つまり、泳いで海面に戻りやすくなるッ!」
乙姫「な、なるほど!」
男「あばよ、乙姫! 世話になったな!」バッ
乙姫「若返りドリンクじゃ! 持ってけ!」ヒュッ
男「美人なだけじゃなく、サービスもいいんだな」パシッ
乙姫「……!」ポッ
サメ「やりましたね、そのまま板にしがみついてりゃ姐さんの勝ちだ!」
女「だからあんたは三流ザメ止まりなのよ」
サメ「えっ……」
女「私には分かる。あいつは来るわ」
サメ「んなバカな! あれだけの勢いで海に沈んだんですから――」
ゴゴゴゴゴゴ…
サメ「この気配は……!」
女「ほらね?」
男「ドリンク飲んで――」グビグビ
男「ぷはぁっ! 戻ってきたぜえ……」
女「ふふ、そうこなくちゃ面白くないわ」
男「さあ、続きをやろうか」
女「そうね」
サメ「姐さん!」
女「ん?」
女「ありがたいお言葉だけど、これは私の戦い……」
女「ここからは助太刀したら……フカヒレにしちゃうわよ?」
サメ「……!」ドキッ
乙姫「わらわも追いかけてきたぞ! 竜宮の軍勢でおぬしをサポート……」
男「悪いな、乙姫……」
男「こっからはもうタイマンだ。余計なマネは控えてくれるか」
乙姫「は、はいっ!」トゥンク…
女「絶対渡さないわ!」
両者、構えてから――
ドドドドドドドドドドドドドドドッ!!!
サメ「す、すげえ水しぶきだ!」
乙姫「二人の拳(ラッシュ)が、衝突しておるのじゃ!」
乙姫「たとえるなら大型の魚雷をマシンガンの勢いで発射し合ってるようなもの!」
サメ「サメなのに鳥肌が立ってきたぜ……」
ボォー…
船長「おーい!」
男「!」
女「!」
船長「二人を救助に来た! 戦いはここまでだ! 二人とも、すぐワシの船に……」
二人は船長を睨んだ。
船長「えっ!?」
男「邪魔すんじゃねえよ」
女「沈没したくなきゃ、黙って見てなさい」
船長「は……はいっ!」
女「ええっ!」
殴り合い、蹴り合いつつ、板を奪い合う二人。
船長「こ、これは……まさかあの――」
船長「伝説の≪カルネア・デスマッチ≫!」
≪カルネア・デスマッチ≫とは――
古代ギリシアの哲学者カルネアデスが考案した決闘法。
海の上で決闘者二人が一枚の板を奪い合い、最終的に板を我が物とした方を勝者とする!
敗者は海の藻屑と化すが必然の非情のデスマッチである……。
女「そうね」
男「お前……“水上立”は出来るか?」
女「もちろん」
ザッ… ザッ…
海面に二本足で立つ二人。
≪水上立≫とは――
文字通り、水の上に立つ極意。
長年の鍛錬と、天性のバランス感覚を持ち合わせてこそ可能な絶技である。
これを極めたなら、たとえ水面といえど地面と同義となる。
乙姫「二人とも大したものじゃ……。あの若さで“水上立”を……」
水面を蹴り、高速タックルを仕掛ける。
男(そう来ることは読めていた……ヒザを合わせるッ!)
グチャッ!
メキメキ…
女の顔面にヒザが直撃。
サメ「ああっ! 姐さん!」
しかし、女は全くひるまず――
男「なにぃ!?」
水上でテイクダウンを奪った。
男「ぐっ!」
女「さあて、そろそろ雨が降りそうね。拳の雨がねえ!」
ガッ! ゴッ! ガッ! …… ……
無慈悲に振り下ろされるパウンド。みるみる男の顔が赤く染まる。
サメ「いっけーっ!」
乙姫「ううっ、もうダメじゃ! マウントポジションから抜ける方法はない!」
女「えっ!?」
男「海に架かる橋ってのもいいもんだろ!?」グンッ
女「きゃあっ!?」
男はブリッジでマウントポジションをはねのけると――
ガキィッ!
さらにアッパーカットの追い打ち。
女「ぐはぁっ!」
男「ぐっ……」ヨロヨロ
しかし、パウンドを喰らい続けた男のダメージも大きい。
サメ「どっちも譲らねえ!」
乙姫「なんという戦いじゃ……!」
女「私のものよォ!」
さらに攻防は続く。
打撃、関節、投げ、絞め――あらゆる技術を駆使し、板を奪い合う。
船長「全くの互角! ワシにもまるで勝敗が読めねえ!」
大岡越前「だが、決着は近いぞ」ザッ…
船長「あなたは……! ワシの船に乗っていらっしゃったのですか!」
大岡越前「うむ、たまには船旅もいいと思うてな」
大岡忠相(1677~)
徳川吉宗の頃より町奉行を務め、名奉行と称えられた幕臣。
後に寺社奉行となり、大名の列に入る。
21世紀を迎え、齢300を越えた現在も最高裁判所の裁判長として辣腕を振るっていることは余りにも有名。
男「……!」
女「……!」
両者が同時に板をつかんだ。
サメ「板の引っぱり合いが始まった!」
乙姫「お互い力は残ってないじゃろう。これが最後の攻防になるのう」
船長「つまり、ここで板を引っぱり込んだ方が勝利かッ!」
大岡越前「……」
女「ぐぬううううううっ!」
グググッ…
二人に引っぱられ、板にダメージが蓄積されていく。
メキメキ…
大岡越前(あの板、もはや限界だろう。もし本当にあの板を大事に思ってるのならば、無理な引っぱり合いはせぬはず)
大岡越前(つまりこの勝負、“先に板を放した方”こそが勝者ッ!)
果たして、勝者は――!?
サメ「えっ!?」
乙姫「板を……手放した」
船長「しかも……同時にッ!」
男「これ以上は引っぱれねえ……板が可哀想だ。俺の負けでいい」
女「ううん、私の負け。板が壊れちゃったら元も子もないもの」
船長「なんてこった! この場合、勝敗はどうなっちまうんだ!?」
男「あっ!」
女「あなたは大岡越前!」
大岡越前「余も≪カルネア・デスマッチ≫の審判を幾度も引き受けたものだが――」
大岡越前「同時に板を手放すというのは初めて見たッ!」
大岡越前「よって、この勝負……引き分けとするッ!」
ワアァァァァァ……!
パチパチパチパチパチ…
冴え渡る大岡裁き。
異論のある者は一人もいなかった。
女「ふふ……」
男「あのさ、このデスマッチを通じて、俺改めて自分の気持ちが分かったよ」
女「なに?」
男「俺、お前が好きだ!」
女「……!」
男「結婚しよう!」
女「うん!」
ワアァァァァァ……!
サメ「ちっ、姐さんいい表情してるぜ」
乙姫「わらわも惚れるいい男じゃったが、あの娘の方がお似合いじゃ。祝福するぞよ」
男「え?」
女「板が光ってる!」
大岡越前「二人の決闘を通じて、板も成長したのだ」
大岡越前「その板はもはや水に浮かぶだけの板ではない。二人が望めば空とて飛べるだろう」
男「マジですか!」
女「さっそく乗ろう!」
二人が板に乗ると、板が空中に浮かび上がった。
女「すごい! 乗り心地も抜群!」
男「魔法の絨毯みたいだ!」
大岡越前「二人とも、新婚旅行を楽しんでくるがよい」
男女「はいっ!」
女「ねー、どこ行く?」
男「うーん、そうだな……」
男「せっかくだし、カルネアデスの故郷、ギリシャにでも行ってみないか?」
女「そうだね!」
男「よっしゃ、飛べ! カルネアデスの板!」
ビューンッ
― 完 ―
アテネ土産よろしく
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