信長包囲網の主力として頑張り、
志賀の陣では織田に勝利し、信長に
「天下は朝倉殿持ち給え、我は二度と望みなし」
とまで言わしめた
しかし、僅かその3年後に朝倉家は滅亡してしまう。
どうすれば朝倉家は滅亡を回避できたのか、
織田に勝利する可能性はあったのか、検討しよう。
義景が愚将扱いされるのは下記の2点
・志賀の陣で和睦したこと
・信玄の西上作戦時に撤退したこと
しかし、朝倉家の国力はせいぜい50万石であるのに対し、
織田の国力は尾張美濃伊勢だけで150万石、近江南部や畿内の親織田勢力を考えると
4倍以上の国力差があったと考えられる
刀根坂の戦いの頃には義景自身が出陣しても応じない国人衆が出てきたほどで、
朝倉家の国力はかなり疲弊していた
そもそも織田家と朝倉家の間に国力差がありすぎたことが根本的な敗因ではないだろうか
越前という国の魅力を忘れては行けない。
当時京の都より栄えて日ノ本一番の都市を有し、堺港とならぶ敦賀港を有していた土地。
石高以上に相当魅力的な土地であり一乗谷にはすでにガラス工房まであったほど、そんな越前だから信長がどんなことをしても手に入れたいとも思っていたはず。
>>14
信長が必要としていたのは越前ではなく若狭と敦賀では
特に敦賀は日本海側から京に抜けるルートで、
貿易をするにあたって最重要な拠点だった
越前手に入れた時に朝倉の旧臣に任せて、
その後に一揆や一向衆に襲われた時にも無視している。
確かに越前は1国で50万石の大国で商業も栄えているが、
当時の信長にとって必要な土地だったのだろうかは疑問
石高や商業的なものはもちろんだけどそれ以上に越前というブランド価値があったんだろと。
越前を柴田、若狭を丹羽とNo.1と2に治めさせてるし。
徳川幕府時代も結城や松平といった身内だしね。
いや、その前に一度朝倉の旧臣に任せている
それが失敗したから柴田が入ったわけで
知力武力はもっと高評価でもいい
粘り腰がすごい
志賀の陣までは朝倉有利だったはずなんだが
その後に秀吉、勝家、長秀あたりが近江に入って奮戦したところで潮目が変わった感じなのだろうか
雪
浅井の配下が裏切ったから遠征軍の朝倉軍は孤立したままで冬を越すのを恐れて撤退。
(これなぜか織田軍の奇襲攻撃により砦奪取とか、朝倉は本当に負けてない戦いがほとんど負けたことにされてるのが多すぎるね。この場合も浅井軍の裏切りであった。)
そしてそこで刀根坂になる。
多分朝倉の唯一?敗北らしい敗北は刀根坂だけだけどここでほぼほぼ壊滅状態にされてる。
いや、刀根坂の開戦前の時点で朝倉はボロボロだったと考えるべきでは
当主の義景自身が出陣しても、ついてこない家臣がいたほどだったし
朝倉家滅亡の原因も刀根坂の敗戦自体ではなく、その後に裏切りが続出したからでしょ
事前に調略が済んでいたともいえるし、義景に家臣がついてこなくなっていたともいえる
刀根坂前はボロボロってほどでもないよ。そこまで大規模な戦事態もないしね。
ただ経済的にという意味では数年に渡って何度もの遠征でキツくなってたのかなぁとは思う。
けどやはり決定的なのは刀根坂での撤退戦の失敗とその撤退の原因になった浅井配下による裏切りでの孤立だと思う。
冬の木の芽越えは想像以上にきついかと、いまの時代ですら通行禁止になるようなところだし。
戦で負けたというよりは経済力で負けたって印象のが強いかと。
うーん、信玄の西上作戦が始まる前の時点で
前波吉継や富田長繁など大物の離反者が出ているからなぁ
朝倉家の内情は末期の武田家みたいにガタガタだったんじゃないかな
そうすると籠城しても結局離反者続出して滅亡しそう
武田勝頼と同じで義景に滅亡の原因を求める通説はまちがってる
そんな不安要素あったっけ
二大親族の敦賀郡司家(朝倉宗滴の家系・景紀とその子景ミツ・景恒)と大野郡司家(景鏡)がメッチャ仲が悪い
加賀一向一揆鎮圧の大将の座を巡って景ミツと景鏡が争い、景ミツが自刃
さらにその後も景紀と景鏡が席次争いして、その後は顔も合わせないぐらいに犬猿の仲
景鏡は強欲で、主人の義景と権力争い
一族グダグダやで
当人生きてる間はそれで回るけど、亡くなった後問題噴出するでしょこんなん
光秀謀反のがまだ分かる
織田方につかなかった浅井家はバカだなぁと思うが
織田ではなく幕府軍と考えれば?
完全に力を失った足利幕府が一時的に復活しただけでしょ
そんなんすぐ潰れると思っても不思議じゃない
扱いが軽んじられてたからじゃね?
実際織田と義昭の利益になる行動とれてたかというと微妙だし
んで裏切りまくりのザ畿内の国人な動きしてるやつだし
まぁそれはあるかもしれん
徳川は遠江・駿河と領土を伸ばすことができたため
織田との同盟が続いたが
浅井は織田に蓋をされた形になったからな
朝倉の領土分けてやるから味方になれ、って言ったらどうなっただろうか
長政と織田の手切れ時期だと
織田派
・織田、足利、徳川、武田(援軍は送らずとも同盟中)、松永、三好本家、大阪辺りの国人衆、別所
中立
・本願寺
朝倉派
・朝倉、三好三人衆、六角残党(本領無し、こっそり味方の国人有り)、比叡山
我関せず
・長尾、毛利
志賀の陣になって、本願寺が朝倉派に加わった位
位といっても本願寺の影響が物凄く大きいんだけど
これでよし朝倉派に付くって何気に凄いな
畿内の国人情勢なんて昨日の今日で敵味方ころころ変わるレベルで
自分が軽んじられたから向こうに着くとかも日常茶飯だし
別に凄いとはそんなに
実際織田も足利も何度もピンチに陥ってる
許してもらえるのかどうかはわからんが、タイミング次第だ
そうなってくると義兄を裏切ってきた浅井長政はなんやねんってなるやん
どこまでいっても浅井長政がネックになるやん
共に頭下げようとか言ったら
朝倉殿はそうなんですね朝倉殿の中ではそうなんでしょうね
じゃあ今から徹底抗戦の挑発のために織田方の城に突撃してきますよ
それで朝倉殿の幻想をぶち壊してやりますよ
それでもダメなんですか?
とか言いそう…
浅井は地形的に織田家に朝倉領を独占されると大名として詰みだからなあ。信長の家臣でなく大名でいるには朝倉領を獲るか、信長と戦うしかない。
信長政権で手柄立てれば栄達の道なんかいくらでもあったろうに本当にサイコパスだね
それを言い出したらほとんどの戦国大名はサイコパスになってしまうよ。(間違いではないきもするが。)結論から言うと宇喜多辺りのように信長に頭下げて大名から部下になることを受け入れた人間が生き残ったわけだし。
信長が最初から自分の手で天下取るって宣言してたなら織田政権で手柄立てる気にもなったかもしれんが
当時の信長は足利将軍を担いで、足利幕府を再興する立場だったからなぁ
落ち目の幕府で手柄立てても栄達の道なんてあったと思うか?
大内や三好を見てれば、上洛したからって、だから何?と思うのは無理ない。
朝倉自身、長尾の上洛に協力してるしな。
それがいつの間にか信長包囲網側の総大将が足利義昭になってる
総大将が逆の勢力に行ってるんだから、朝倉家が裏切るなんて大したことはない
実際上洛させようとしたりしてたし仲良くしてれば上杉の抑えにもなるから勢力残ったまであるが
一向一揆はどうせ起きる
まぁ結果から見るとそうなんだが
織田家の風下にはそう簡単に付けないでしょ…
後は早々に織田に降っても池田勝正や赤松、尼子みたいに使い潰される可能性もある
日下部氏の流れをくむ朝倉氏も下賤な出自って事はないそこそこの名門ではあるんだけど
越前国内におけるネームバリュー的には弱いって言えば弱いんだろうな
だからこそ自分達は名門であるって強く言い聞かせて信じ込ませてるような状態だったのでは
鞍谷氏を庇護下において縁戚となった後も名門コンプレックスは解消されなかったのか
「この名門の朝倉家が織田家のような成り上がりものに仕えられるか!」
って言ってるけど立場的には同じだよね
斯波氏の領土を乗っ取っただけ、兄弟みたいなもん
信長になってやっと尾張一国を統一できた織田とだと、越前支配してすでに五代目の朝倉では織田を格下と想ってもある程度は仕方ないかと。
地理的にも京の次くらいに重要で当時日本中の憧れの地である越前と尾張とでは明らかに格差はあったかと。
そこら辺の下剋上とは格が違うわ
包囲される側が最強だと難しいのかね?
古今東西、合従軍が上手くいった方が少ないのでは…
合従する側には手を組む要素はあるけど、それ以上に裏切る要素が山程ある
ナポレオン戦争とか、ヨーロッパ戦線の米ソ参戦のように
フランスがハプスブルク家打倒のために当時最強のオスマン帝国と手を組んだがそれでも上手く行かなかったしなあ
その達人が家康だしな
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