関東平野が無かった?🤔
家康が来る以前はぐっちゃぐちゃの川に囲まれた沼地や
沼地というだけで関東平野が存在しなかった訳じゃ無いやろ
そらそうやけど文脈から言いたいことはわかるやろ
だとしても間違いやん
もう消えてええで君
アスペっぽい
ちょっと専門的な内容。「楽市楽座」は、信長が始めたわけでもなく、習ったような内容でもなく、自由経済の先駆けのように捉えるのは、後の世の偏った見方のようだ。敵国の近くなど戦略上重要な場所に人を集めるために、安心して商売ができるよう保護したのが「楽市」で、「楽座」の事例は少なく、内容も「座」を廃することではなく、座からの徴収金を減らして商人にとって楽になるという意味であった。教科書で習った「楽座」=「破座」は秀吉の時代の話であるようだ。歴史の教科書はどんどん変わっていくので、世代間の常識に隔絶が生じるなあ。
刺激的な一冊。「楽市楽座=信長」というイメージを廃し、織豊系以外の大名の「楽市」も考察する。大名ごとに様々な目的で出され、恣意的に運用される「楽市」は「自由な商取引」という言葉だけでは説明がつかず、また商人側も「諸役免除」に拘り、それが「楽市」に伴うものかどうかは重視しない。さらに衝撃は「楽座」で、それが役銭の減免を願う座側の申し出であり、「座の特権廃止」とは全く異なるということ。常識が揺さぶられるエッジの立った内容で、大変勉強になりました。
楽市楽座はあったのか (中世から近世へ)
https://bookmeter.com/books/13447652
山に囲まれた都会など無価値
関所についても信長は他の大名と同じく支配拡大で不要になった軍事関は廃止しても
関税を徴収する商業関は多くが存続していた
例えば信長支配後の京では関税徴収の先駆けである京の七口が引き続き存在していて
琵琶湖においては堅田衆の関税を織田に上納までさせていた
こうした商業関の廃止が進むのは信長ではなく秀吉の時代
明治以降に定着した「織田信長=既得権益と戦い新たな時代を築いた英傑・革命児」という史観は近年の歴史研究の世界ではもはや時代遅れ
むしろ畿内における既得権益との癒着や支配地への過酷な課役、京の地子銭の復活など一見前時代な方針こそが織田氏の権力拡大に多いに寄与したとされる
「戦国時代、信長以前の大名の主兵力は農民で合戦は農閑期しか行えなかった。それを信長は「兵農分離」を行い常備軍を有して一年中合戦を行えるようにした」という俗説が広まったが…
この「信長の兵農分離」概説、現在多くの歴史研究者に多方面から否定されている。
そもそも信長が兵農分離政策を行った証拠とされてきた史料とは、実は
古くは朝倉氏が分国法で定めるなど既に各地の大名が行っていた城下集住すら織田氏は遅れていた、信長の革新性どころか後進性を示すだけのものであった。
兵農分離を行った証拠は実はない(真田丸の時代考証・丸島和洋氏の解説)
https://togetter.com/li/327812
ちなみにその史料の記述を要約すると「信長は安土に移転後も未だに城下に妻子を移住させない家臣達に怒り、失火事件を機に彼らの実家を焼き討ちした」というもの。
今川義元が勢力を伸ばす時期、既に有力大名は寄親寄子制や直属の牢人衆などで季節に関わらず兵を動員する体制を構築しており
今川軍が桶狭間の戦いで6月に大軍を動員できたのもこの理由。川中島の戦役でも両軍が夏期の農繁期に対峙している。
豊臣政権の小田原征伐に対する北条氏の百姓動員令のような事例は緊急事態に限られ、その状況においても百姓が直接戦闘に参加する事は少なかった。
そんなことする変態、あの時代信長だけやったやん
信秀も2回ぐらい変えとんで
信長の商業政策とか信秀とか道三のいいとこどりや
堺もギリギリで折れなければ尼崎同様信長に焼き討ちされてたんやろな
親族にも敵がいたって後から知って驚いた
尾張統一に10年くらいかかってるからなぁ
あんな土地で周りに喧嘩売りまくる武田は頭おかしい
あんな土地やからやろ
山賊みたいなもんや
領地拡張政策とらなきゃええのに
諏訪もガチの味方かわからんし
土かぶれがあるからしゃーない
田舎者やから周りが見えてないんや
陸路は関ヶ原か伊賀超えなきゃ行けません
水路は紀州水道も安濃津も海賊の力借りなきゃ超えられません
僻地では🤔
京都から遠いので僻地って君京都人か?
例えば当時の文化レベル、尾張より山口の方が上だったのは大内個人の資質によるものだけじゃなく「京都から山口」より「京都から尾張」の方がリアルに遠かったから、ってのもあると思うで交通網的に
瀬戸内海の水運使えばあっという間やしな
大内は寧波まで船出してたぐらいやし
本能寺無ければ光秀には瀬戸内海任せるつもりやったんかな
そもそもほんまに尾張より山口の方が文化レベル高かったんかな?
確かに小京都と呼ばれるけど実際はそれほど差がなかったんじゃないの
領土欲がなかったというよりどこも豪族と主家との関係がそこまで上下に厳しくできてなかった
信長は最初苦労したぶん、そこの構築がうまくできてたんじゃないかな
信頼出来る親戚には頼らずに、能力はあるけど信頼出来ない外様をガンガン起用する、なんていうリスキーダイス連投キチガイが信長以外おらんかったんやろ
信長は親戚と喧嘩しすぎて当時の一般的な選択肢既に潰されてたしな
その結果が最後に爆発引いて本能寺や
信長とそれ以外の会社って上場企業と非上場の同族企業の違いみたいなもんやと思うわ
ノッブは株主からの圧力あるから拡張し続けるしか無かった
領土欲はどこもあったけど、武田や今川みたいな均衡した勢力が付近にいるから牽制し合うしかなかったり
そもそも他国へ攻め入れるほどの金も兵も持ってない貧乏領主だらけだった
かの比叡山延暦寺との争いも元は織田が勝手に延暦寺の領地を占領して徴税まで始めた事が発端やしな
朝廷は延暦寺の訴えを認めて領地の返還を求めたが信長は無視してる
強引やったらしいけど
斎藤龍興が美濃の統治に失敗して勢力が衰退したことに漬け込んで美濃がとれたこと
この二つが大きいやろ
もし本能寺なかったら信長って家康どうしてたんやろな殺してたんやろか
飛ばされてたやろな
結局秀吉の政策と一緒や
浅井、荒木と同じで領土拡大の出口がない状態になるからな
それを家康が飲んで完全に部下になるかどうかやない
取り込んで終わりやろ
家臣引き抜いて勢力弱らすとかはしそうやけど
人材よりも物量が正義なんやろか?
人材は正しく運用していれば勝者側からどんどん出てくるもんやで
あんなに小さくて大した武家でもなかった徳川家でも腐るほど出てる
大事なのは時代に合ったマネジメントや
どんなに才能あふれる人で集団を作っても、脱落する人が出てくるし、
どんなに無能な人で集団を作っても、その中から働き者で優秀になる人が出てくるからねえ
言うても織田家譜代家臣って無能ばっかりやん
拡大政策取り始める頃にはもはや外様ばっかや
柴田ですら一回裏切っとるくらいやし裏切りに甘い言うけど許さな人材手薄なるからしゃーなし謝ったら許すでって感じやったと思う
なお、家臣はそう思ってなかった模様
S久間の証言「何をおっしゃります、殿!!これほど優れた家臣団はほかにござりませぬぞ!」
そして数年後・・・
退き佐久間の異名を持つ撤退戦の名手さん、最後は自分が織田家から退かされた模様
柴田は信勝付きの家老なんやから裏切りちゃうやろ
柴田も譜代やないで、どっちかというと信秀に取り立てられた成り上がりものの人間や
丹羽も前田も宗家やないし村井、滝川あたりも取り立てられた人間や
譜代家臣は佐久間、林あたりやないか
佐久間は無能まではいかんけど
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